株式会社芹工務店
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会社案内

芹工務店 30年の歩み

代表取締役社長の芹澤素臣です。
この30年間私が見てきた芹工務店のお話をさせてください。
少し長くなりますが、ご容赦願います。

  • Story 01

    株式会社芹工務店が設立されたのは、私が中学3年の2月でした。
    「息子の高校入学も決まり、これからお金もかかるだろうに・・・大丈夫か?」と不安に思ったものです。恐らく常務も同じ思いだったでしょう。
    その後、会長から当時の話を聞いたことがありますが「不安で眠れないことなんか一切無かった。特にプランがあるわけでもないけど、どうにかなるだろって思っていた。」と豪語している様をみて、やはり良い意味で「ポジティブ」、悪く言えば「鈍感」な人だと感じました。

    会長一人で始めた会社でしたが、サラリーマン時代から繋がりのある設計事務所より工事を請け負う等、ある程度仕事もあったようです。仕事が増えてきたことで、今まで金勘定なんかやったこともない会長は、当時小学校の教員をやっていた常務に経理担当として白羽の矢を立てます。
    正直常務も経理なんかやったことありませんから、きっと不安だったでしょう。
    今でも常務は「教員続けていれば、今頃年金もたんまりもらえたのに・・・」と笑いながら愚痴ります。

    そこから「とうちゃんかあちゃんの芹工務店」が始まりました。

  • Story 02

    時を同じくして、私も進路の岐路に立たされていました。
    私の通っていた高校は、2年から文系理系のいずれかコースを選択しなければなりませんでした。
    小学校の卒業文集で「プロサッカー選手になる」というアホな夢を掲げましたが早々に夢破れ、やりたいことを見失っていましたが、なんだかんだいいながら建築を日常で感じていたことも事実でした。

    会長に「将来建築を学ぶために理系へ進もうと思う」と話しました。
    すると会長は「これから建築業界は先細りになる。もっと世界に羽ばたくような仕事がきっとある。会社のことは気にしないで、やりたいことをやれ。」と言われました。
    「出来損ないの息子に何て過度な期待をしているのだろう!そしてあんたはなんで建築やっているのだ?」と心の中で突っ込みましたが、特に深く考えず、理科が苦手だと言う不純な理由で文系を選択しました。

    しかしこの話には続きがあります。この話は誰にもしたことがありません。

  • Story 03

    会長との相談後、文系へ進む手続きを終えたところで、おばあさん(会長の母)へ進路を決めた話しをしました。
    私は元来生粋のおばあさん子でかわいがってもらっていたので、きっと「あんたが決めたことだからいいんじゃないか。頑張りな!」と言われると思っていました。
    しかし、おばあさんはおもむろに押入から何かを取り出し、私に見せました。会長の中学時代の文集でした。
    「覚はね、このころから工務店を自分でやりたかったんだよ」と言いました。
    その文集には確かに「将来、建築会社の社長になる。」と書かれていました。それっきりおばあさんは黙ってしまいました。

    当時私に何を伝えたかったのか、本心はわかりませんでしたが、この出来事は以降私の人生の岐路で、思い出されることになります。

  • Story 04

    私が高校を卒業するころには「とうちゃんかあちゃんの芹工務店」にも少しずつ社員さんが増えました。
    当時の芹工務店は今と違い、設計事務所からの物件を工事する施工専門の会社でした。また中規模ゼネコンの下請けとして施工も請け負っておりました。それでも、ある一定量の仕事はあったので、なんとかかんとか私も大学へ行かせてもらえることになりました。

    先ほども話した通り文系を選択していたので、大学も建築とは全く畑違いの商学部へ入学しました。大学で学んだことで、今の仕事にも生かされていることは損益計算書と貸借対照表が読めることくらいです。

    そして就職活動の準備を始める3年の終わり頃を皮切りに、常務からの電話が増えました。
    ある日は泣きながら、またある日は怒りながら私に愚痴を言うだけです。
    詳しくは聞きませんでしたが、会社がうまく行っていないことは容易に想像がつきました。

    後で聞いた話ですが、当時下請け工事をしていたのですが、元請からの支払いが滞ったそうです。その会社は直後倒産しました。それでも芹工務店は業者さんに支払いをしなければなりません。会長も常務も金策に走り、何とか業者さんへ支払いをしたそうです。

  • Story 05

    1990年代後半の住宅業界は、自社で営業も抱え設計施工を売りにする小さな地場工務店が現れ始めた時代でした。設計事務所物件や下請けだけで生きていくことが難しく、工務店も自立する時代の始まりでした。
    頭の良い会長ですから、きっと何か考えていたはずです。それでもピンチはピンチです。

    常務からの電話が頻繁になった頃、「おばあさんとの出来事」を思い出すようになりました。「おばあさんは何を伝えたかったのか?」と考えるようになりました。

    会長とおばあさんは基本的にあまり話をしませんでした。
    でも「覚は賢い子だ。けれども無鉄砲で気まぐれなところが玉に瑕。」と常々私に話していました。なんだかんだ言っても、お腹を痛めて生んだ自分の子です。おばあさんにとっていつまで経っても可愛かったのでしょう。あの時の「おばあさんとの出来事」は「覚が困った時には、あんたが助けてくれって伝えたかったのだろう。」と勝手に解釈しました。

  • Story 06

    4年の春、「やはり建築の仕事をしたい」と会長に話しました。黙って会長は頷いてくれました。
    大学卒業後、朝昼は都内の建築専門学校に通いながら、夜は会長がサラリーマン時代に付き合いのあったアトリエ系の設計事務所でバイトする日が始まりました。建築のイロハもわからない小僧をバイトで雇うことになった所長の苦笑いは今でも忘れられません。

    専門学校卒業後、そのままその設計事務所へ入社しました。
    所長は何もわからない自分へ、熱心に建築のイロハを教えてくれました。決して派手な作風ではありませんが、美しくそしてシンプルで意味のあるデザインを徹底的に叩きこまれました。今の芹工務店のデザインの根幹はここにあるといっても過言ではありません。

    またこの頃から私の在籍していた設計事務所と芹工務店はコラボし始め、設計施工の道を歩み始めることになりました。少しずつ芹工務店のカラーを出し始め、営業がいない中会長と常務を始め、みんなで完成見学会をやりはじめたのもこの頃です。

  • Story 07

    私が30歳を迎える春、芹工務店に戻る事になりました。
    大学3年の頃、泣きながら電話をしてきた常務を見て「絶対夫婦で家業なんかやらない」と誓ったのにも関わらず、専門学校時代に知り合った奥さんを道連れに沼津へ帰りました。

    設計は自分がやるからなんとかなる。しかし皆様ご存知の通り、こんな仏頂面で愛想もない私が営業なんか出来ない。
    そこで私が入社する前から、芹工務店の見学会のチラシ作成を担当しており、沼津の広告代理店に勤めていた高校時代からの腐れ縁である田中を、営業として道連れにしました。

    高校時代担任が、田中に対して「君はそのキャラクターを生かして営業になりなさい」と言った言葉が印象的でした。「天性の営業センス」を見抜いていたのでしょうね。

  • Story 08

    営業も設計も揃った芹工務店は自立をし始めます。
    しかしまわりには設計施工を売りにしている工務店が乱立していました。ただデザインが良いだけではいずれ淘汰されるだろうと感じました。

    「これからの住宅に必要なものは何か」を会長と話し合いました。住宅について会長と話をしたのは、この時が初めてだったと思います。「決して早すぎることはない。これからは間違いなく住宅に求められるのは性能だ」と。 会長と私は同じ想いでした。

    今の芹工務店のコンセプトである「幸せのなる家」、そして3つのこだわりである「高気密高断熱住宅」「耐震制震住宅」「デザイン住宅」の原点の誕生でした。
    当時このエリアで高気密高断熱に特化している会社はほとんどありませんでした。またその必要性をお客様たちもあまり感じていない時代でしたから、「静岡は暖かいし、そんなの必要ないでしょ」と中々受け入れられませんでした。

  • Story 09

    そんな中、お子様が喘息で悩まされているあるお客様と出会いました。高気密高断熱住宅は、疾病も改善されることを得々と説明し、そのお客様は理解を示してくれました。

    晴れてアイシネンを使った住まいの第一号が完成しました。
    完成から半年後、そのお客様から「娘の喘息がほとんど出なくなりました!」という感想をいただきました。「幸せを感じる時」をお客様と私達が共有した瞬間でした。

    芹工務店は「幸せを感じる家を提供する」という理念を掲げていました。会長が考えたものです。

    お客様には「芹工務店の作る住まいで営む日常生活に幸せを感じてほしい」という想いがこめられています。
    また「幸せを感じる家」づくりを見守る社員の皆様、ビルダー会の皆様にも、多くのやりがいと笑顔を通じて、公私ともに幸せに満たされてほしいという想いもこめられています。

  • Story 10

    どうして中学の頃「将来、建築会社の社長になる。」という夢を抱いたのか、会長に直接聞いたことはありません。
    しかし会長はああ見えてロマンチストです。時折「幸せ」というワードを口にします。彼が住まいづくりを通じてやりたかった本当の夢は「携わる人、全てを幸せにする」ことだったんじゃないかなって最近勝手にですが、感じるようになりました。

    芹工務店創立30周年の節目となる平成30年、私は新たに「携わる人、全てを幸せにする」という理念を掲げました。
    「幸せを感じる家を提供する」という言葉は、企業のミッションとして残しました。
    この想いを継いで行くことが、私のこれからの役目であり、夢なんだと思います。

    住まいは何世代にも引き継がれ存続していくものです。作り手の私達は当然それを見守り続ける義務があります。 
    令和を迎え新たな仲間も増えた芹工務店は、この先も皆様と共に歩んでまいりたいと思います。

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