芹澤 覚|会長 2014.10.02
芹澤家の檀家寺は三島の龍澤寺です。
三島駅の北側の三島市の体育館の奥の沢地にあるのですが
芹澤家は私のおじいさんの代まで400年ほど沢地で続いた家柄だったそうです。
おじいさんが遊び人で身上を潰してしまったそうです。
龍澤寺はお彼岸の中日に大施餓鬼を行い、その時には昼食に精進料理を出します。
京都あたりで食べる洗練された精進料理ではないのですが
ひなびた感がとてもノスタルジックで、毎年、昼食目当てで出かけてゆきます。
お寺は料理だけでなくて建物、敷地の適度なひなびた感に癒やされるので
本日は写真で紹介しましょう。
車でスロープを上がると東から銅板屋根の本堂、瓦葺き屋根の庫裏、その西側に東司(台所)と建物がならんでいます。
この写真の右側に駐車場がありますが彼岸などの特別な日は、車はスロープ下の駐車場までです。
建物を見回してみましょう。
唐破風屋根のところは正面入口ですが、ここは貴賓用です。
庶民らは下の写真の左端の入り母屋屋根の勝手口から出入りします。
で、本堂の正面に鐘楼、その奥に坐禅堂・書庫・毘沙門天堂や坊さんの寝所があります。
坐禅堂の前から庫裏や東司方向を振り返った写真です。
この鐘楼、六角形なんですね。
いいでしょ。
鐘楼を本殿とは反対側へ右に回ると三門です。
本来は下から歩いてここへ上がって来るのです。
左の写真が鐘楼ごしに三門を見たところです。
右の写真は三門の中から本堂を見たところです。
注記
三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、三解脱門を表すとされる。
建築史的見解では、初期の寺院の門構えは南面する正門、東西2つの副門から構成されており、これを称して三門と呼んだという。時代が下ると左右に脇門が付属する大門の形となり、さらに大門のみとなったが、三門の呼び方は残ったとされる。
龍澤寺は1700年頃に白隠禅師が開山したとのことです。
廃寺同然だったのを大正4年に山本玄峰老師が臨済宗妙心寺派の修行道場として再興したそうです。
昭和天皇が終戦の宣言をなさった言葉の中の「耐え難きを耐え、忍び難きを・・。」の文言は
玄峰老師の草案だそうです。
玄峰老師は戦後まで活躍されましたが、私の父は「小さい頃にかわいがってもらった。」と言っていました。
龍澤寺には幕末期に活躍した左官で有名な「入江長八」の作品が多数あるので建物は
建物はその頃(1860年代)のものだと思われます。
三門の天井鏝絵も長八の作品のようです。
また、庫裏の勝手口の上の入り母屋屋根の破風板下の龍の飾りも長八の作品のようです。
左は上の三門から本堂を見返した写真よりもう少し外に出た写真です。
獅子や獏?(麒麟かな?)の彫り物もなかなかのものです。
三門の外を駐車場に下ってゆくと高い石垣が見えます。
これは30年位前、調度、私がサラリーマンを辞める頃に造られたものです。
その頃の老師は玄峰老師の二代後の鈴木宗忠という人で、この人は盛んに寺内を改修しました。
本堂の屋根を吹き替えたり、庫裏の中を改装したり、石垣も
寺の東側に有った梅林や竹林がだらだらの坂に繁っていたのを潰して
石垣にしたものです。
高さは石垣の上に見える塀が五尺(1.5メートル)くらいですから
7~8メートル有るんじゃないでしょうか?
ひょっとしたら10メートル有るかなあ?
どうです、風格が有るようにみえるのかしら?
ワタシ的には昔のだらだら斜面の竹林のほうがよかったなあ。
どうでしたか?
結構いい感じでしょ。
京都あたりにあったら、そこそこ観光名所になると思いますよ。
一日散歩に良いと思いますよ。
このすぐ近くに、そばの「石堂」がありますからお昼をそこで食べながら・・。
11月23日(勤労感謝の日)には毎年「観楓祭」と称して一般見学ができます。
虫干しを兼ねて所蔵品の書画が展示されます。
結構な所蔵品がありますよ。